「ナンバーワンのNo.2になる」と決めた日?!

ソニーの創業者は盛田昭夫だと思い込んでる人が大勢居ますが、私は実質的な創業者は井深大だと思っています。この人の事を知るにつれて「ナンバーワンのNo.2になる」と決めました。誰にでもナンバーワンになれる秘訣とは?

ナンバーワンのNo.2とは?

言ってみれば、何人か居る副社長の中ではトップの副社長という意味です。社長にはなれないが、副社長にはなれると思ったら、ナンバーワンの副社長になって下さい。

若い人なら、ナンバーワンのサブリーダーでも良いと思います。もっと言うと、アイドルオタクの中でナンバーワンのNo.2になってください。

それはオンリーワンに繋がる重要なプロセスだと思います。

井深大(いぶか まさる)

Wikipediaの井深大から抜粋を引用します。

敗戦翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年(昭和20年)10月、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げる。

後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田の目に留まり、会社設立に合流する。

翌年5月に株式会社化し、資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務技術担当)、盛田昭夫が常務営業担当)、増谷麟が監査、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業

以来、新しい独自技術の開発に挑戦し、一般消費者の生活を豊かに便利にする新商品の提供を経営方針に活動を展開。そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品を創りだし、戦後日本経済の奇跡的な復興、急成長を象徴する世界的な大企業に成長していった。

つまり、盛田昭夫は営業を担当し、井深大技術を担当して、車の両輪で今のソニーを創り上げました。

ソニーのナンバーワンと言っても良い人ですが、それは盛田昭夫に譲り、「ナンバーワンのNo.2」になりました。

どこがナンバーワンなのか? こんなエピソードがあります。

一例に、1980年代前半ごろのエピソードで、井深が当時の新素材についてソニー社内の担当責任者にその可能性について意見を聞いた際、その返答は満足のゆくものではなかった。

担当者は、現在出来ること、近く出来ることと可能性を話したが、井深は以下の内容を言ったという。

「なぜ、そういう考え方をするのか。そんな数年後ではない。1990年や、2000年でもなく、2010年、2020年にはどうなっているしどうなるべきだから、という考えかたをしないといけない」。

「できるか、できないか」の議論で終わることがよくありますが、井深大は「未来がどうなるべきか」を常に考えている人でした。

「できるか、できないか」で考えるだけなら、「原子爆弾が作れます」と言われたら本当に原子爆弾を作るわけです。「作るべきか?」と言う議論があったなら、もしかすると・・・

以下は盛田昭夫が、海外出張から戻った井深大に言った言葉です。

「どうですか?10年後を見てきましたか?」

ナンバーワンのNo.2になると決めた日

独身時代はナンバーワンになりたいと思っていました。社長になるという意味ではなく、技術者としてナンバーワンになりたいと考えていました。

しかし、いざ結婚してみると、より現実的な事を考えざるを得なくなります。

もっとも、今の若い人のように、結婚する前から「今は現実を考えると結婚するべきではない」とは思いませんでしたが・・・

特に、それまでの小さな企業から大企業に転職すると、ナンバーワンどころか、スペアにもなれないのではないか?などという思いを抱きました。

「鶏口となれども、牛尾となるなかれ」

そんな状況下で出した結論が「ナンバーワンのNo.2になる」でした。

ナンバーワンにはなれなくても、No.2の中でならナンバーワンになれるかも?という背水の陣的な考え方です。

当時の年齢は30歳です。サラリーマンとしては割と中途半端な立ち位置に居ました。転職したばかりなのでグループの中では孤立していましたし、大企業の文化に全く馴染めませんでした。

しかし一方で、大企業の弱点のようなものも見えてきて、やりようによってはコバンザメ的な戦略が通じそうな気がしてきました。

なれたのか?

ではもうすぐ64歳になる今から自分の人生を振り返った時に、ナンバーワンのNo.2になれたのか?と自問自答してみます。

答えは「ノー」です。

なぜなら、井深大からは「未来がどうなるべきか」を考える事を教わりました。

「過去ではなく、未来がどうなるべきか」

だから、いつまで経っても答えは「ノー」になります。

こういうのをソフトウェア技術者は「リカージョン」と呼んでいるみたいですが?

まとめ

永遠に答えが出ない目標というのは、ある意味辛いですが、井深大は、亡くなる直前にこんな事を言っていたそうです。

死去直前には、身体の自由は利かなくなっており、車いすでの移動を余儀なくされた。だが、当時の側近の言に因れば、最後の最後まで頭ははっきりしていたという。

また、「今、なにがやりたいですか?」の問いには

「小さい会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね」

との返答をしたという。

常にチャレンジするという事は、何かを達成した時点ですでにさらに高いハードルの次の目標が存在しているので、いつまで経ってもナンバーワンにはなれないわけです。

そういう意味では、身近な目標となるナンバーワンの背中を追いかける形で、ナンバーワンのNo.2を目指すという考え方は、凡人の私にとっては良かったし、これからもそうしていきたいですね。

「自分にとっては、ちょうど良い」

ではでは、きらやん